世界指圧療法機構
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世界の指圧に関する会報・著書・論文集

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ハワイを支える/支えた日本人
愛泉治療道院院長 愛泉指圧学校校長 因泥徳彦氏

 「Pacific Press」 491号 May 1, 2008

ハワイでの日本指圧の草分であり、30年以上でほぼ2万5000人の来院者に対して指圧を施術してきたのみでなく、指導者として460人を超える指圧師の 人材を育ててきて因泥徳彦(いんでいのりひこ)愛泉治療道院院長。世界に指圧を広めたいという恩師の願いを担って、ハワイに渡ってからの30年余りについ て、サウス・キング通りの同院で話を聞いた。

  この日、因泥院長は日本から帰国したばかりだった。「日本では4月8日が『指圧の日』という記念日になりました。母校の日本指圧専門学校校長・浪越学園 で、この日に合わせて、わたしの恩師浪越徳治郎先生の息子さんの浪越和民浪越学園理事長が父親のことを書かれた著作の出版記念会に行ってきました」
 浪越徳治郎師は、それ以前の按摩(あんま)とは異なる「指圧」という独自の主義療法を確立した人物。同師の教えを受けたことが、因泥院長にとって全てのはじまりだったという。
  「先生には大変可愛がっていただきました。日本の学園に残り、教師になる道もあったでしょうが、海外で指圧を広めたいという先生の願いを素晴らしいと思 い、お役に立ちたかったのです。浪越先生の息子さんの徹先生とわたしは仲が良く、彼と一緒に世界各地で指圧のセミナーを行っていました。1974年にバン クーバーで指圧のセミナーがあり、彼が使節団長、私が副団長でした」
 1994年に死去した徹氏は、海外での指圧指導のネットワーク作りに熱心で、今夏で15回目になる国際指圧大会の礎を築いた人物だ。同大会には毎回アメリカを含む世界中から、600人もの指圧師が集まる。
 「再びバンクーバーで開かれたセミナーに呼ばれ、その帰りにハワイを訪れたのです。1975年でした」。その時、ハワイには指圧が無いから広めたらいいという薦めを受け、一旦帰国して、同年永住を覚悟して再びハワイに。
  「本当にお世話になり、後で永住権のスポンサーになってくれたのは山崎菊代さんという方でした。面識もなかったわたしに『たくさんの人のスポンサーになっ てきましたが、あなたが最後です』といって、スポンサーになってくれました。菊代さんのお嬢様の、ハワイ大学のビートレス山崎博士も、心配して指圧のクラ スを手伝って下さいました。もう一人、ダニエル松陰さんもスポンサーになってくれました。
 この方たちのご恩は忘れられません。人間は絶対に恩を 忘れてはいけない。平井隆三さん(ハワイタイムス元編集主幹)、当時の有吉知事にもお世話になりましたね。それから指圧に世界で始めて保険をかけて下さっ た、野口アンド・アソシエーツの野口英夫氏にも御恩を感じています」
 指圧業を営むためには、まずアメリカのマッサージ師技術試験に合格し、資格 を取得しなければならない。「1回目はね、落ちちゃいました」と笑う。試験の英語がわからなかったからだ。2度目で合格した。「つまり、やる気の問題なん ですよ」という。その後、山崎さんらの助力を得て、1976年に永住権を取得した。1977年には、手技療法講師資格者にも認定された。
 「こうして助けてくれる人が居たのも、わたしが指圧を広めるという一つの道に思い定めて、他に目もくれず一心不乱にやってきたからだと思います」と、この道を歩いてきたことに運命的なものを感じているという。
  「そのころ教えをいただいていた、八神道の日野尊元先生(道主)という方が居ましてね。『君は、指圧一筋にやっていけば、その道では世界で何人と勘定され る部類の人になれる。そして日本に居らず、デカイ国に行きなさい』と言われた。スポンサー探しなども言われた通りになりましたよ」
 ホノルルでの施療者としても指導者としても、出発点になったのは、同年にハワイ大学マノア校のキャンパスセンターで、ノンクレジット(学位取得外)の講座で指圧を教えたことだ。
 「たいへん好評をいただいたんですよ。それで、言葉が通じなければ通訳をいれればいい。ここでやっていける、という気持ちになりました」
  「77年3月に愛泉治療道院を開設しました。ぼくはこのインターステイトビルの1番古いテナントですよ。出来たばかりの時にはいって、このフロアには誰も いなくてがらんとしていた。しかも最初は、広告の電話番号が間違っていたため誰もお客が来なかった。仕方ないからビーチに泳ぎに行っていましたよ。開業を 知っている人たちも、電話が通じないのは、きっと3月3日の開業が間に合わなかったから、4月3日に開業なんだろうとのんきに構えていたのです。そのうち に、山崎さんの姪御さんが、『あなたの電話、連絡が取れないわよ』と血相変えて駆けつけてくださった」
 1977年9月には愛泉指圧学校も開校した。
 「治療だけに専念したほうがお金を得るためには良かったかもしれませんが、浪越先生の教えを広めたいという気持ちがあったので、学校もすぐ開きました」
  前年のハワイ大学での講座の生徒の口コミで、すぐに生徒が17人も集まった。それ以来、今日まで同校には、460人余りが入校してきている。入学した人の ほとんどは、州の免許を取得した。開校当時は120時間を3ヶ月程度で終えるカリキュラムだったが、州の免許のために学ばなければならない事項が増えたた め、現在では200時間以上のコースになっている。この学校の卒業者は、州免許の実技試験は免除されている。
 「しかし免許をとったといっても、指圧を施療して、お客さんの身体に実際に効果があって、はじめてその人の仕事がビジネスになるわけです。だから、治療道院で見習い期間を設けています。実質、全部で10ヶ月から1年ぐらいのコースになっていますね」
 また、他のマッサージ学校で習うなどして、州のマッサージ師資格を取っている人は、実技のみのコースを取ることもできるという。愛泉指圧学校のコースの一部には、ハワイ大学医学部と共同でのセミナー部分があり、セミナーの修了書が発行される。
 因泥院長は指導者としての責任を重んじ、積極的に教え子に関わっていく姿勢を強く見せる。
  「教えるということは、『教えて』『育てる』というこですからね。種を撒き、その人たちが育ち、枝を伸ばしていく。ぼくは指圧はどうあるべきかということ を、いろいろうるさく言うから、敬遠して来ない人も居ます。逆に入学したいと言われても、事情を聞くと真剣さが足りないとこちらからお断りする方もいます ね。日本から、ここで指圧を学び、州の免許を取りたいという若い人も来ます。でもわたしは受け入れません。ハワイで過ごしたいだけという動機の人が多いか らです。断るとほかのマッサージ学校などに行って学ぶ人も居ますが、免許を取っても、実際にその仕事を続けることは難しいと思います。わたしは指導者とし て、お金もいただくのですから、無責任なことはしたくないのです。指圧の心とは人を癒す心であり、生徒の成長が自分の満足になります」
 「ここで免許を取った人には、免許をとってからもいろいろ教えを求めてくる人も居て、その人たちとは互いに協力しています。でも音信不通になってしまう人も居ますね」
  卒業生のうち、100人ほどがハワイで開業している。因泥院長自身は「シアツ・マッサージ」という呼び方は、不正解だからしない。手技療法として、指圧 と、マッサージや按摩、骨接ぎ、灸などがあるが、それぞれに異なった種類の療法だからだ。だが仕事として指圧専門だけでやっていけないので、双方をやって いる人も居るという。
 「指圧とは、手指と掌を使ってするものです。また、たとえば按摩は、静脈を心臓に向けて、血液を心臓に送り返すように押す ものですが、指圧は動脈を、心臓から離れる方向に、心臓から流れ出す血液の力を増すように押し、身体の生命力を増進するもので、押す場所も押し方もみな違 います」
 院長の座右の銘の一つは、『指圧の心、母心、押せば命の泉湧く』だという。恩師浪越徳治郎師の言葉で、母校の校訓でもある。
 愛泉指圧学校の卒業生のうち本土に移って営業している人も多い。
 「軍隊で働いたあと、手に職をつけようと、ここに習いにくる人も居ますからね。生徒も、最初は日本人・日系人が多かったですが、ハワイアン、サモア系、黒人、白人とすべて居ます。職業も看護婦あり、建築家あり、弁護士の人まで居ますよ」
 指圧で開業しなくても、自分の職業に生かしている人も多い。「また、軍人の奥さんで一生懸命に習いに来た方も居ますね。イラク出兵などで、旦那さんが任地に行き、ここに帰ってきたとき、指圧をしてあげるという人も居ます」と院長。
 因泥院長の活動は、これまでにホノルルの各機関や団体と協力し、ボランティア活動を行うなどして、指圧への理解を深めてきたことに大きく支えられている。
  「1978年から、ホノルル・マラソンで、米国指圧師協会と一緒に毎年指圧のボランティアをしています。完走者のみに指圧をする。今年で30回目になる予 定です。ボランティアとして以前の生徒らが70人から80人手伝いに来てくれます。この人数で、700名以上、多いときには900人から1000人に指圧 をするので、みんなふらふらになりますね。去年(2007年)は天候のせいで芝生が水浸しでね。開催者が『できるか』というから『できるよ。板と担架を 持ってこい』といって、ちゃんとやりましたよ。誰からも苦情はでなかったですね。このボランティアを見て、東京柔道整復専門学校・学校法人杏文楽員の生徒 たちも、日本からホノルル・マラソンのボランティアのために来てくれるようになりましたよ。スタディ・ツアーの一部に組みこんでいるようです」
 「ハレマレマラマ老人ホーム」で1978年から13年間指圧のボランティアを行った。クアキニ病院でもボランティアを行っている。
 ライオンズクラブの世界大会で施術したり、ホノルル日系商工会議所が市内の生徒を招いて行ったセミナーで、子供たちに指圧について教えたこともある。また日系第100大隊、第442部隊の退役者のためにも指圧クラスを開いた。
 院長が数多くの人に施療してきた中、印象深いお客も多かった。
  「一人は、なんといっても何清(ホー・チン。イリカイホテルなど数多くの事業を経営)さんです。はじめて来たときはどういう人だか判らないから、ボティー ガードがあちこちに立っていてびっくりしましたよ。効果はあるか?というからじゃあ10回チャンスをくれと言いました。最初は車椅子で来ましたが、1ヶ月 したら杖をついて歩いてきた。3ヶ月めからは一人で歩いて来て、半年後にはゴルフに誘われましたよ。数年して亡くなられる前にも、入院中の病院からわたし のところに直接やって来られてね。施術後に、自宅に帰ってしまうので、わたしが病院まで送っていったりしたことがあります。ほかにも、元知事やカジノの オーナー、かつての国民党政府の将軍、世界的な学者の方などいろいろな方がおいでになりましたね。石原裕次郎さんがカハラの別荘に居らしたときも、車でお 迎えが来まして、週3回、4ヶ月ぐらい通いましたよ」
 また、本土からハワイに来る際にアポイントメントを取って、毎年やってくる客も居る。あるニューヨークの老婦人は、1990年から毎年愛泉治療道院を訪れていると、院長はいう。
 「もとはヨーロッパの方なんですが、ヨーロッパから家族が訪米中にいつも一緒にハワイに来て、彼らにも指圧を薦めてくれましたよ」
  お客には因泥院長の評判を口伝えで聞いてくる人が多いが、病院から送られてくる人も居る。「ペンキを塗っている途中で、はしご上で身体が完全に固まってし まった人が居ました。救急車で病院に運ばれたんですが、そのままこちらに送られてきまして、身体をほぐすのに時間がかかりました」。その人は、あとで山の ようなアンパンを差し入れてくれたという。
 病院の医師が処方を指定すれば、指圧も保険の対象となる。因泥院長は、クアキニ病院で指圧のボランティアもしており、医師や看護婦も指圧を受けているので、効果をよく知っているのだということだ。
 因泥院長は埼玉県人間市の出身で、ハワイ埼玉県人会の会長を1980年から務めた経験もある。また、1987年にハワイ州とホノルル市から表彰を受け、1998年にも州、市とハワイ民族衣装文化普及協会より「日本文化普及賞」を受賞した。
 昨年2007年には、愛泉治療道院設立30周年の節目を迎えた因泥院長。「今後も礼節を守り、指圧の道をすすみたいと念じています」と語っている。 

 


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