指圧療法の生いたち

日本指圧専門学校編 「浪越式指圧療法 基本実技」 より抜粋

太古の昔より、人類は持って生れた思考力と器用は指先で、いろいろなことを発見し、成しとげてきました。水や食物を保存するために、うつわや容器をつくったり、木と木をこすって火をおこしたり、自然に湧きでる温泉で体をあたため、草や実、木の皮、葉などを煎じて飲み自己の生命維持のため、あらゆる生活の知恵を生みだしました。

また、体に痛み、うずき、こりなどを感じると本能的に局所に手がとどき、なでたり、さすったり、おさえたりします。然し、これは本能的操作であって、治療法とはいえません。この操作がだんだんと体系づけられて生まれた手技が、中国のあんまであり、西洋のマッサージです。そして日本では手技療法として指圧療法が発達しました。おそらく日本ではいろいろな名称と方法で古くから行われていたわけですが、指圧療法として体系づけたのが浪越徳治郎なのです。

浪越徳治郎は明治38年11月3日香川県の多度津で生まれました。7才のとき家庭の事情で一家は北海道へ移住しました。そこは洋蹄山のふもとで当時、未開発の土地で、無医村でした。一家はここで生活することになり、移住してまもなく母親が膝の痛みを訴え始めたのです。それは急に暖かい南国から寒冷の北海道の気候の変化と旅の疲れが、からだによほどこたえたのでしょう。痛みは、だんだんと悪化し足首や手首、肘、肩などにもおこるようになりました。今でいうと多発性間接リューマチという病名なのです。

当時、クスリは無く、医者は居ない、家族の物がかわる、がわる痛む局所をさすったり、おさえたりする以外に方法がなかったわけです。兄弟が朝から晩まで、あるときは交代で夜中も、からだをさすり続けている内に、だんだんと痛みがとれ始めて来たのです。いつとはなく母親が、徳治郎、お前の手が何だか一番、気持ちがいいといい出し自分からここをこういう風に手のひらでおすと楽になるとか、おや指でおすとよいなどと指図をしている内に徳治郎もすっかりコツをおぼえるようになり、最初はさすったり、もんだりしていたのが、いつとはなく、じんわりと手指や手掌でおすようになったのです。

これが指圧療法を生み出すきっかけとなったのです。その後、人体に関するあらゆることを研究し、全身の指圧の基本圧点、即ちツボを定め、指圧療法を生理、解剖学的に体系づけ、大正14年に始めて室蘭で独立して開業、その後、札幌に進出、弟子などを養成しました。そして昭和8年東京に進出して開業、多数の名士に指圧療法を施し、昭和15年2月11日、同志を養成するため、我が国で初めて指圧の専門校として文京区小石川テ伝通院前に日本指圧学院(現日本指圧学校、場所も同じ)を設立したのです。

その後、指圧の治療効果が、だんだんと世間に認められて、昭和30年に我が国で始めて指圧が法律で認められました。そして昭和32年には厚生大臣の認定校になり、日本指圧学校として正式に発足し、更に昭和56年には専修学校に認定され、校名も日本指圧専門学校と改称して我が国、唯一の指圧師養成の専門校として現在に至っています。